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奇人、変人、ニーボーダー
以下はBLUEマガジンに寄稿したニーボードの原文です。 


Photo by Island surf


ヴィクトリア州フィリップ・アイランドで生き続けるニーボード文化



Kneelo 膝立ちで波に乗るニーボーダー、通称ニーロの数は80年代をピークに激減に転じ、現在では絶滅寸前種属に指定されている。だが頑なにニーボードを守り続けた一団がヴィクトリア州のフィリップ・アイランドにいた。そして時代は回り回って、再びこの種族に小さな光が差し込み始めているようだ。題して・・・

奇人、変人、ニーボーダー

 

 

サーファーには個性的なキャラクターが多い。だがニーボーダーの変わり様はサーファーの比でない。サーファーに比べて著しく少ないとはいえ、ニーボーダーに変人が多いのは数字の上からも立証できる。その理由こそ定かではないが、これから紹介するトップニーボーダー達に共通している点は、クリエーティブワークで生計を立て、各々の分野で超個性的、さらに言えばニーボーダーはライディング同様、人格までユニークと断言できる。今からその真偽を問おう。

  
 
オーストラリア・ヴィクトリア州のフィリップアイランドでは毎年ニーボードのコンテストが開催され続けている。年に1度オーストラリア中のニーロ達が集結する光景は壮大だ。
2011年には世界大会が開催される。


             

                                                                            

垂直落下 FREE FALL
                             

 


危険極まりない浅く掘れ上がる波に対して彼等は得意技を持っていた。垂直落下「フリーフォール」と「グラブレール」である。さらに腕パドルに加えて、足ひれという爆発的加速の原動力を水中で得られるニーボーダーは、60年代初頭のフォームボードの出現で革新的飛躍を得た。彼等はスタンドでは困難な奥から吹き矢のようにシリンダーを潜り抜けた。極浅のコーラルリーフでも藤壺がこびり付いている岩場でも突っ込みメイクする。一般のサーファーに大いなる刺激を与えたのは確かである。1963年にチューブライディングとチューブの中で一回転するバレルロールに挑戦していたのだから、いかに彼等が革新的だったか想像できるだろう。サーファーが同じポジションからテイクオフを試みても大部分は無駄である。無駄どころか自殺行為に直結する。例のフリーフォールとグラブレールの強みと、普通ならワン・ツ・スリでテイクオフするところ奴らはワンでテイクオフしてファーストポジションに走り出している。スタンドアップではノーズから真っ逆さまのピークを、奴等はそこが見せ場とばかり水面を離れ落下しながら次の角度をグラブレールで決めるのだ。しかも低姿勢なのでスタンディングよりも安定する。それはチューブの中で真価を発揮する。さらに波のフラットな部分からでもフル加速のラウンドハウスカットバックを遂行する。カリフォルニアのビッグロックやウェッジ、シドニーのシャークアイランドといった危険極まりない掘れ掘れポイントを最初に征服したのがニーボーダーというのも頷ける。スタンディングでは不可能なポジションからテイクオフを決めチューブの奥深くを走る。つまり波に乗る種族の中でもエリートに属すると言えよう。もっともサーファーからは「立ち上がれ、インポ野郎」とか、「クリップル」だとか、慌ただしいまでに「ファック」だと罵倒されながらも、スタンディングの先を行くマニューバーとラインを提示し続けたのだ。次々と良い波を奥の奥から走って来るニーロに対して、ただ眺める側は言葉で攻撃するしか、自己の内側から沸き起こる嫉妬心を打ち消す術はなかったのだろう。各地でローカリズムが凶暴化した時代でさえニーボーダーは平和主義を守り通していた。

 




 

時代を切り開いた3人のニーロ 

Peter Crawford,

George Greenough,

Steve Liz,  



         
Photo : Aitionn                            Photo : Aitionn


 ニーボードの歴史を簡単に紐解くと、古代ハワイアンがパイポやアライアで波に乗っていた頃から膝乗り文化は存在した。先ずは腹ばい、次に膝乗り、最終的にスタンディング・サーフィンに移行した。膝乗りは目線が水面に近く分、スピード感は立って乗るよりも遙かに速く感じられる。つまりスリリング度が高いのだ。初期の完成形ボードは半月のキールフィンとデックの両サイドに取っ手が付いていた。1960年フォームの普及がウッドボードを市場から完全に追いやり始めた頃、1962年ニーボード革命がシドニーのノーザンビーチーズで起こった。9フット以上のロングボード全盛期に背丈以下の極端に短いボードで、変幻自在に波の上を走り回り異質の存在として目立ったと聞く。カールカールのブライアン・テスタック、コラロイのバリー・シャークとリッキー・ライト、それにモナヴェールのトム・ガブラーといった名人がシドニー・ノーザンビーチーズの狭いエリアに出現し始めたのだ。余談になるがリッキー・ライトはオジー・ライトのパパである。当時からニーボーダーに共通していた点、それはユニークでインテリ、そして波に乗るが滅法上手かった点である。この頃からニーボーダーはニーロと呼ばれ始めるようになる。

シドニーのピーター・クロフォードも伝説の人だ。彼が住んでいたディーワイポイントは岩場の前からエゲツなく掘れ上がる波だ。そのピークの奥の奥から、垂直落下をグラブレールで制御しながら、身を小さく畳んでチューブを抜けてくる。通称PCは同じくディワイ・ニーロのクリス・クロージアと完全オリジナルの膝乗り専用のボードを完成させたのは1963年である。通称SLAB は幅が広くロッカーは少なく極端に短かった。これがオーストラリアで主流となるモダンニーボードの原型である。PC1963年ニーボードを始め、1977年から3年連続でオーストラリア・タイトルを獲得。その傍らでUSAサーファーマガジン誌のフォト編集長を1977年から90年代中頃まで務め、80年ウェーブス誌を創刊。

未開のインドネシアを探検し、ジャワのポイントの多くはピーターが第一発見者だ。ジャングルを行く戦場カメラマンと言われたほどだ。

世界のトップ中のトップ水中写真家として不動の地位を築いた天才肌である。だが悲劇は1999年クリスマスの晩、バリ島に起こった。毒ヘビに噛まれ他界、まさかの死だった。オーストラリア中のニーロ達は喪に服し、波の大小に関わらず海に入った。翌2000年早々には有志が集まり、PCの死を悼む冊子が編集され1000冊が瞬く間に完売した.




ショートボード革命の夜明けは、ジョージ・グリノフ@ヌーサ1965年が定説だが、実はシドニーのニーボーダー達により試行錯誤が繰り返し行われていたのだ。だがサーフィン専門誌サーフアバウトとサーフィンワールドが辛うじて創刊され始めた1962年当時、奇妙なニーボードは誌面に登場する機会がなかった。だが彼等ニーロ達は新しいサーフボードデザインを駆使しターンで加速しながら左右上下に動き、チューブを狙うモダンサーフィンの基礎を築き始めていた。

ジョージ・グリノウがサンタバーバラからオーストラリアのヌーサを訪れたのは、その3年後である。自作の5’6”スプーンボードから繰り広げるマニューバーは「かつて存在しないもの」であった。その場に当時のワールドチャンプ、ナット・ヤングとボブ・マクタビッシュという目撃者が存在したからこそ、その日の出来事はショートボード革命の夜明けと言い伝えられるようになった。ナットはグリノウの描くラインをスタンアップでしようとジグザグに動くサーフィンの限界をプッシュした。マクタビッシュはグリノウのフィンを拝借してファンタスティック・プラスティックマシンを完成させた。一方スプーンボードは制作者グリノウ以外に乗り手が現れず40年が過ぎた。理由は浮力がなく乗るのが困難を極めたからだ。昨今の珍ボード大リバイバルブームの勢いのお陰で、神様グリノウに近づきたいの一心からオリジナル再現を試みるシェーパと乗り手が数えるほどだが出現している。グリノウは生まれながらの資産家なので商売には目もくれず、やりたいことだけを追求する。自からが開発した水中ハウジングを背負ってチューブの中からフィルムを回し「インナーモスト・リミテッド・オブ・ピュア・ファン」と、自作のボートで波探しの旅を記録した「クリスタル・ボアヤージュ」を制作。またハリウッドムービー「ビッグウェンズデイ」では水中撮影を担当するなど、クリエーターとしても大成功を収めている。その後オーストラリアに移住。現在はバイロンベイの近郊ブロークンヘッズの波を見下ろす丘上のピラミッド型の家に一人で暮らしている。昔から飛行機はファーストクラスしか乗らないが、裸足である。まさに元祖ミスター・エキセントリックなり。

 

 

1967年、南カリフォルニアのニーボーダー、スティーブ・リズは極端に短いかく幅の広い膝乗り専用のフィッシュに立ち上がり、周囲を威かせた。つまり膝で乗っているだけならフィッシュムーブメントはなかったとも言える。その姿を見た多くのサーファーがフィッシュにスタンディングで乗るようになり、南カリフォルニア・フィッシュは始まった。独自のデザインを完成し70USAニーボードチャンプになる。

その技はスキップ・フライやリッチーパベル等に引き継がれ現在のフィッシュブームを再興したのはご存じの通りである。ここカルフォルニアでもニーボードがスタンドアップに与えた影響力は大きかったのだ。

 

 

 

 

 

 個性の爆発とピーク、そして没落

 

60年後半にカリフォルニアとオーストラリアで同時多発的にニーボーダーは増加する。当時ニーボードのデザインは9フット以上のロングボードが一大主流の最中、「6フットに満たない幅広フラットロッカー」は奇異だった。だがシドニーのピーター・クロフォード等が完成させたスラッブと、南カリフォルニアのスティーブ・リズのフィッシュに、その奇異が共通していたから驚きだ。ニーボードのデザインが2カ国で同時に完成されたのだ。

60年代中期といえば、世界はヴェトナム反戦とヒッピー全盛、革新的自由こそ美徳とばかりサーフボードも毎年目まぐるしいほどに短く激変した。それを機にドゥー・デフィレント「他と違いことをする」を信条にニーボーダーも増え始めた。時代がそうさせたのだ。やがてニーロ達はメインストリームを行くスタンドアップのサーファーとは別のグループを形成し始めた。

オーストリアで人気のロックバンド「ブレーカーズ」のヴォーカリストとして有名なニール・ルークは、人里離れたフィリップ・アイランドでニーボードを定着させている。昨年から暖かいバイロンベイに家族と移住したが、依然として世界各地のコアなニーロ達からのカスタムボードのオーダーが絶えない。ニールがニーボードを始めたのは1970年。フィリップ・アイランドのビーチブレークはショアーブレークが激な日も多く、折れるボードの他に比べて多かった。ビーチに打ち上がった折れたサーフボードのノーズを削りグラシングして腹乗りして純粋に波乗りを楽しむことから始まり、膝乗りに移行したそうだ。絶滅しかけたニーボードがフィリップ・アイランドに現存する理由はニール・ルークのライディングと人格である。何もかも奇抜だが理に適っている。17歳でヴィクトリア州のトップになり、1975年サーファー不毛の地であったフィリップ・アイランドで3人の仲間とアイランド・サーフボードを始める。様々なタイプの波がある島でニーボードを進化させながらその数は増え、ニールを慕うニーロの集団が形成された。ワイルドな波に立ち向かう強さと、どうしようもないほどの優しさ。それがニールの教えで、この地のニーロ達に伝承される共通性である。

70年代に入りカリフォルニアではレックス・ハフマンが単身ニーボード普及に努めたが、数は増えなかった。サーフィン・イコール・自由、そしてアンチコンテストのアメリカンサーファーも膝乗りを流行らせるほど寛大ではなかったのであろう。一方オーストラリアは他人を気にしない自由が蔓延するお国柄のせいか、数こそ少なくてもニーボーダーは各地で盛り上がりを見せた。その盛り上がりの中心はいつだってコンテストだ。徐徐にニーボーダーが小さいながらも海の市民権を獲得すると、1976年プロサーフィン設立の同年に初のプロコンテストがシドニーで開催された。初代チャンプのスティーブ・アーティスを筆頭にピーター・クロフォード、マイケル・ノヴァコフ、サイモン・ファレーとオーストラリア勢がワールドタイトルと上位陣を完全に独占した。1988年にはプロサーキットにニュージーランと南アフリカが加わり国際化し始めた。その規模は決して大きくはなったが、一堂にニーボーダーが集う光景は「奇人で貴人・変人にして芸術家」の集会の如く壮絶だったと語り継がれている。強さの面でオーストラリア勢は他国につけ込む余地を全く与えなかった。だが90年代に入るとボディー・ボードの普及がニーロを激減に追い込み始めた。そして21世紀に入りニーロは絶滅寸前種属に指定されてしまった。だがそんな種族にほんの僅かながら、この20年間失われていた明かりが見え始める。ニール・ルーク発祥の地であるフィリップ・アイランドでは、若手ニーロが増加し始めている。さらに驚くべくことに来年3月には大胆にもワールドコンテストがそのフィリップ・アイランドで開催される。メルボルンから車で約1時間、世界のニーボーダーが一堂に集う光景は、総大であろう。絶滅寸前種族だからこそ彼等は強い共通性、アイデンティティーを有しているはずだ。

 


 

過度のアドレナリン分出

最後になるが、なぜニーボーダーには、写真家、絵描き、ミュージシャン、商売の天才、スピード狂のバイク乗りといった平均的職業とは離れたお仕事をする人が多いのか?なぜ同じ波を乗るサーファーの中でも選りすぐりの天才系が多いのか?何度も繰り返すが膝乗りから得られるスピード感プラス水への視線が近い分、波との一体感は強くなる。さらに波のパワーの感度は、膝から下プラス腕でボードを抱え込む分、足の裏しか波との媒体サーフボードに接していないのでスタンディングのサーファー以上に強い。その結果ニーロ達のアドレナリンは否応なしに過剰分出する。過度のアドレナリンの分出がサーファーとは異なる価値観を創造しているのだ。でなければ説明が付かない。まさしく平和を好むハードコアな種族、それが現存するニーロで、波に乗るエリートである。

 

 

 

 

 

Peter Crawford 

 日本では余り知られていないがピーター・クロフォードはサーフィン史を語る上で欠かせない存在だ。奇抜なファッションでストーンズやデビッド・ボウイを大音量で頭に叩き込み、ラジカルなサーフィンを繰り広げた。ディーワイの岩場に何度打ち上げられてもディープチューブとバレルロールを繰り返した雄姿は伝説である。マイケル・ピーターソンとも親交が深く、互いに影響を与え合った。

 

George Greengh

ショートボード革命以前の1960年代初頭に6フットのミニサーフボードを完成させ、さらに長く細く良くしなるフィンを開発。このフィンデザインなしではボードのショート化は完成されなかったであろう。1966年ヴェロと呼ばれるスプーンボードを抱えてオーストラリアへ行く。そこでショートボード革命が起こる。だが全く同時期にハワイでデック・ブューワーは別のアプローチから独自のサーフボードデザインを完成させている。

 

Steve Artis 

スティーブ・アーティスはニーボードのプロコンテストの初代チャンプ。テリー・フィッツジェラルド率いるホットバタードのシェーパーで、70年代後期のデレク・ハインド・モデルのツインフィンにも影響を与えた。その後サイモン・アンダーソンのエナジー・サーフボードに移り、スラッシャー(トライフィン)を逸早くニーボードに取り入れる。80年代中頃にアースライズ・サーフボードを設立しニーボードデザインをリードした。

 

Neil Luke 

ニール・ルークは「腹這いだろうが、膝乗りだろうが、スタンドアップだろうが波に乗るには関係ない。金持ちも貧乏も強いとか弱いとデカイとか小さいとかも、海に前ではどうでもいいことさ。波に乗るのは自由なんだから」は語る。長老格のジム・ブラウンを筆頭に中堅のポールやケヴィン、さらに10代の若手達と、今もフィリップ・アイランドにニーロが多いのはルークの人格に他ならない。

 

 

Ken Horton シドニー出身のケン・ホートンは最もスタイリッシュなニーボーダーだが、一速くシドニーの混雑を逃れるようにNSW州のフォスターへ、さらにゴールドコーストで移り住むと商才を発揮した。オーシャン&アース、ホットツナ、オークレイ、クイックシルバーなどで重要なポストを務め現在はスパイサニー社の重役。

 

Peter & John Ware

ジョンとピーターのウエアー兄弟は70年代中頃フライアータック・ニーボード社を設立。ジョンはボードのスプレーワークで成功を収めると、オーストラリア・サーフィンワールド誌の水中カメラマンからシネマフォトグラファーとして大成功を収めている。ピーターはバンコクで古物商を営みながら旅先でニーロとして生き続けている。80年代チーム・ライダーの一人デーン・パークスがビジネスを引き継いでいる。

 

 

Mike Novakov

マイケル・ノヴァコフは80年代、もっとも強かったニーロである。81NSW州のタイトルを獲得。この時期ワールドタイトルは2年に1度開催されていたが連続3回、延べ6年間世界一の座を守っている。トライフィンを装備して優勝した初のニーロだ。フルレール・トゥ・フルレールの連続で他を圧巻させた。1986年サーフィンマガジン誌は「ノヴァコフはスタンドアップの未来を導くサーフィンをしている」を完成度の高いバレルロールを絶賛した。

 

 

Dave Parkes

デビッド・パークスは南シドニーのマルーブラで幼少期から父ギャレットとサーフィンをしながら育った。マルーブラといえばブラボーイズで有名な怖い場所、そんな土地柄で第一次反抗期の15歳、他と違う少数派に魅了され1974年にニーボードを始めた。その速度と自由なマニューバーに酔い痴れ、1983年以降何度かワールドチャンプになる。シドニー仕込みの伝統的なニーボードシェーパーとしても高い評価を得ている。

 

 

Simon Farrer

シドニー・ノーズナラビーン出身。90年代ニーロ絶面寸前時、サイモン・ファレーは名シェーパー、ウェイン・ハッチーのシェープしたボードでワールドチャンプを獲得。以降暗黒の90年代から現在をリードし続ける。一方でニーボードメーカーのTシャツ作りから始めたスクリーンプリントからその才能を発揮。独自の手法と匠でスクリーンプリント・アーティストとして大成功を収めている。

 

Island Locals

ニール・ルークの故郷フィリップ・アイランドにはその血を受け継ぐニーロ達が年代別に生息している。その数は75名前後、毎年アイランド・クラシックコンテストが開催されている。年代別とオープンに分かれ長老達にはオーバー60歳のクラスも用意されている。ジュニアはここ数年増え始めエアも標準装備され始めている。スタンドアップでは不可能とされるバレルロールもここのニーロはリードしている。

 





 

宣伝です。

ニーロのタートルはエコな鱒料理のレストランを営業中だ。豊富な雨水を武器に広大な敷地に鱒を飼い、ヴェジタブルを栽培して100%オーガニックにこだわる。来年開催されるワールドチャンピョンシップの前夜祭はここで行われる。フィリップ・アイランドに行く際は絶対行くべしレストラン。魚好きには答えられない味と量と質と安いお値段です。

Rhyll Trout & Bush Tucker Farm

36 Rhyll-Newhaven Road, Rhyll PHILLIP ISLAND 3923

Phone 03 5956 9255

www.rhylltroutandbushtucker.com.au/

 

 

 

 

ハウツー・ニーボード  

 

 

1 ボード

長さは6フット前後、全てショートだ。幅は広いが理由は膝でボードに対して平行に立つからだ。ロッカーは一般のショートボードに比べて弱い。またスタンスの中心となるセンターにかけてはフラット度が強い。フィンはシングルからツイン、トライ、クアッド、ファイブフィン、それ以上と何でもあり。フィンはサーフボードよりも前方にセットされる。スタンドアップのように後ろ足でボードコントロールをするのではなく、ボードの中心でバランスを取る。ターンの切掛けは左右と前後にボードを傾けて作る。

 

2 フリッパー 

テイクオフの加速に欠かせないが足ヒレだ。抵抗が少なく柔軟性の高いものが良いとされるが、脚力により個人差がある。

 

3 膝をガードする厚めのデッキパッチ

ニーロの弱点、それは膝への負担度が高い点だ。70年代は膝パッチを付けるニーロも多かったが、デッキパッチの開発こそ80年代にかけてのニーロ増加の要因であろう。

 

4 スタンスはパラレル。

でもレギュラーとグーフィーがある。パラレルスタンスといえどもテイクオフ時にどちらかの膝が僅かながらでも先に出る。左膝が出ればレギュラー、右ならグーフィーである。

 

5 グラブレール

スタンドアップでもチューブを狙うさいに波に巻き上げられないようにレールを掴む。またフルレールのボトムターンやラウンドハウスカットバック時に水中のレールの傾きを維持するためにグラブレールは有効である。ニーロの場合、常に低姿勢なのでレールを掴んでターンを安定させることが可能だ。またレール・トゥー・レールこそピーター・クロフォードとジョージ・グリノウが完成させた変幻自在のターンの源でもある。さらに落下の際にボードの上でバウンドするのを防ぐためにもグラブレールは不可欠の技である。

 

 

Special Thanks ; www.islandsurfboards.com.au

www.neillukekneeboards.com



posted by: ozartsurf | - | 08:00 | comments(1) | trackbacks(0) |-
ピーター 家に来た時は 楽しかったよ。

| PJ | 2013/01/14 9:05 PM |









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