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日本のサーフメディアを紐解く Number-1 ポパイ2012.05.19 Saturday
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1970年代、日本は浮かれていた。
ヴェトナム戦争も終わり、日米安全保障条約、赤軍派、労働組合のデモ、、、
そんなムーブメントも廃れて、時代は大阪万博から高度成長世代に移行していた。
サーフィンは60年代に朝鮮戦争に向かうアメリカ兵がサーフボードを持ち込み
横須賀の基地から湘南や伊豆の大和館、千葉に新しい波を求めて
日本にサーフィンの種が巻かれたのだが、、もちろんそれ以前に日本各地に
板子のりという波乗りは存在していた。だがサーフボードの上に立ち
波に乗るという文化はアメリカ兵が持ち込んだが定説である。
米沢プラスティックックやテッドらは本場の技術を学び日本でサーフボードを
作り、西武デパートでは輸入ボードが高値の花として売られていた。
1976年、立教大学を卒業した若き石井英明は銀座のオーシャンライフ社から
日本初のサーフィン専門誌サーフィンワールドを創刊。ここに日本の
サーフィン文化がスタートするのだ。1978年には大手の出版社、」平凡社が
ポパイを創刊。タイトルはThe Surf Boy − この夏は焼けた潮風を全身で
受けとめるために街を離れよう。とある。この年、私は生まれて初めてアメリカの
西海岸に行きサーフカルチャーの洗礼を2ヶ月間に渡って浴び、髪の毛は茶髪、
ファッションまですっかり変わった。音楽はビートルズからドゥービーブラザースや
イーグルスなどの西海岸モノに移行して、ハンティントンビーチでBKショップの
店番をしていたデビッド・ヌヒワから4BKの新グリフィンを買った。

しばらく、自分史と日本サーフィンメディアを重ね合いながら
あの時代をブログに書いておこうかと、ふと思った。
日本の住まいの倉庫を整理していて、膨大なサーフィン雑誌が出てきたのだ。
石井さんのワールド、SC、辻堂のサーフマガジン、ナンパなサーフィンライフ、、、、
USAのサーファー、サーフィン、オーストラリアのトラックス、ライフ、ウルワツ、、、、、
ダンボールに20箱以上あるので、整理しながら、読み返すと止まらない。
不思議なくらい文面に至るまで記憶に残っているから、波乗りは脳で覚えているものだ。
先ずはサーフィンワールドの分析からスタートします。
オーストラリアへもどるまで時間があるので
これを日課としますので、みなさま、意見があれば一報下さい。
我が記憶は、自分史なので、、、、、
70年代後期の千葉県内房のROSS、夷隅のTED、、、、
怖いショップがたくさんあったのです。
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僕の好きな先生 続き22012.05.17 Thursday
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先生は暁星を引退されて、藤沢で自由な年月を過ごしながらも
毎日、歩いて10分の鵠沼海岸に行きスケッチをされていたそうです。
冬の明け方前、その時間が一番空気が澄んでいて
綺麗なんだ。富士山が大きく、時間も美しく過ぎていく。
「もしかしたら一瞬泊まるのであろうか?」 ー 矢口の意見
そんな時間でも熱心なサーファーがいる。
沖から波と調和するように波打ち際まで
綺麗に乗ってくるサーファーを見ると
俺と年齢の差がないんだよね。
沖からバンバン動いているサーファーが
派手だが波とのタイミングが合わず
最後まで乗り切れない。
サーフィンは年齢を重ねて上手くなるのかい?
私は答えられなかった。
それが事実であって欲しいからだ。
そして先生は沖から波打ち際まできれいに乗り継ぐサーファーを
うまいと評価されているようだった。
我が師匠は、波乗りとは、ともかく1本の波を最後まで
丁寧に乗ること、そして1回でもチャレンジをすること。
と指導してくれた。35年前である。
私なりにその教えを守り、練習と修行を積み
波を調和するように、波への角度、速度、まわりのサーファーとの
関係などを考えて、無駄なく波に乗ることを心情とするようになった。
先生はサーフィンをしない。しかし自然を誰よりも知っている。
その先生が、沖から波と一体化しながら岸まで乗り継ぐ
サーファーがキレイと呼ばれたのには感動した。
子供時代からマスカン(増村寛先生)は、すぐ怒るわ、褒めるは
わけが分からないところがあったが
スキーなど興味もないのに毎年先生の課外合宿には出席した。
それは先生が好きだったからだ。
例え、殴られても、ピッケルで穴をしこたまたたかれても
それ以上の経験ができた。
最近、やっと先生の教えが少しだけ分かる。
自然を舐めるな!
2年前に他界した父もサーフィンに行くたびに
同じことを言った。
それは人生最大の教訓である。
父も先生もサーフィンを知っているのだろう。
確実に私よりも知っている。
波、流れ、調和、、、、
増村寛先生 万歳!
ありがとうございます。
最低の生徒を見捨てずに
私は53歳にして、改めて感謝します。
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僕の好きな先生 再会2012.05.15 Tuesday
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小中高と都内の私立高校に通った。
東京九段の靖国神社の裏にあるカトリック系で
入学当時からフランス語が必修科目で
学年によってはフランス人の神父が担任だったり、
入学式や運動会では必ず君が代とフランス国歌を
歌った。その頃、美術部の先生は、いつも生徒に
好き勝手させ、奥でタバコをふかしウィスキーを飲んでいた。
しかも怖くて、サッカー部の選抜チーム”アストロジュニア”の
コーチをしていた。
また先生は山が好きで冬になるとスキーに生徒を連れていってくれた。
課外授業である。
怖い先生だったが生徒には人気があった。
私も大好きだった。冬、スキーの課外授業、といっても
3−4泊したと記憶する。今から37年くらい前である。
先生はスキーを教えて、私はそれなりに上達した。
山の上から、先生が先頭を滑り、生徒はついて行く。
途中、止まり生徒の確認をしていたのであろう。
しかし私は余りに気持ちが良いので一気に
独りで下まで滑った。
そこで事件が起こった。
先生は私を怒鳴りつけ、ピッケルで穴を思っいきり
殴られた。しかも数十人の生徒全員の前である。
自尊心はボロボロで涙があふれた。
先生は確か「バカヤロー、自然を舐めるな」みたいなことを
大声で言ったが当時の私には全く理解できなかった。
むしろ上手く滑ったな、上達したな、くらい褒めれるのでは
と思っていたので、そのギャップは強力だった。
その合宿の最後の日、雪の結晶が雪印だったのを今でも
覚えている。なんて自然は美しいかったか
子供心に忘れない。
その先生とは最近なってシドニーから年賀状のやりとりを
するようになった。そして偶然日本いる昨日
先生の個展が銀座で行われ、
私は偶然にもその銀座にいた。
さらに偶然にもその会場の前を通り
ギャラリーの中に先生の姿を見た。
誰かと話をしていたので邪魔をしないように
作品に目をやりやりながら、、、、
それはピカソのように大胆な色使いで前衛的で
でも江ノ島や海がとても非抽象的ながら
現実的に、実際に海で見るように描かれていた。
先生に気づかれないように絵を見ていると
「おい、矢口」と、、、、
高校を卒業して以来、1度だけ同窓会で
お会いして以来、15年以上お会いしていないのに、
どーして覚えているのか?
先生は藤沢に住み海へ行きスケッチをしているそうだ。
そして先生はサーファーについて語り始めた。
増村寛先生の作品(ウィペディアより)
イクトゥス、イクトス、イクソス、(ichthys ichtus、ギリシャ語: ΙΧΘΥΣ) は、
弧をなす2本の線を交差させて魚を横から見た形に描いたシンボルである。
初期のキリスト教徒が隠れシンボルとして用いた。今日ではジーザス・フィッシュ(Jesus Fish)やクリスチャン・フィッシュ(Christian Fish)
とも呼ばれている。
僕の好きな先生がサーフィンとサーファーについて
語った言葉は、我が35年間のサーフィン人生を見抜いているようだった。
次回に続く →
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あと70日2012.05.11 Friday
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ニューボードが出来るまであと70日、
すでに1000R近くに乗り、ベイシンの岩や
ニューポートリーフの岩場、クレセントヘッズ、
レノッスヘッズ、、、、、オーストラリア東海岸の
岩に乗り上げフィンボックスは交換、ノーズも大きく修理され
デッキはボコボコだが、まだまだ行ける。
でも、もしこのボードに何かがあったら
と考えると恐ろしい。同じボードはない。
昨年から何度かメールでお願いしていたのだが
返信がないまま、数ヶ月が過ぎた。
私のボードの他に友人2人も「俺にもたのんでくれ」と
述べ3本も頼んだのがうまくなかったのであろう。
10日前、自分のボードだけをお願いしたら
メールが戻ってきた。
OK、80日後に完成するから。
オーーーーマイ・ガッーーーー
キターーーーーー
すまん、2人の友よ。
俺はエゴイスト、自分のボードを最優先させてもらう。
このボードでないとダメだんだ。
10日後に日本を経ち、当分シドニーからヌーサの間を
トリップして、70日後、バーレイでピックアップする。
サーフボードは人生を変える、正しいボードは
人生を正しい方向に導く。波、出会い、愛、、、、
海は神聖な教会で、私たちは信者である。
余りに熱心すぎて、週に日曜日だけではなく
できるなら毎日、朝昼晩と祈りを捧げに行きたい。
そこへは正装が義務付けられている。
私の場合はRASHウェットスーツである。
夏の日差しが強ければボードショーツでも許される。
但し自分にとっての最高を身に纏うことが不可欠だ。
値段やファッションではない。
もっとメンタルなんことなんだ。
そのへんに捨てられているボードショーツだって
マットジョンソンが履けば讀みがえる。
200ドルもオークリーのボードショーツだって
訳の分からない人が履いたら、、、それはそれでいいか?
うぁーーーお、、あと70日寝れば
ニューボードだ。もう名前は決めてある。
聖太郎だ。
早く聖太郎と教会へ行きたい。
冬だから、イルカの結婚式があるかもしれないから、
正装でないとね。
妻は冷たく囁く・・・・
あなた、ちゃんとしなさいよ。
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MPファング2012.05.07 Monday
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Photo Hoole and McCoy
ホール&マッコイが撮影した未使用のフィルムが
オーストラリア・サーフィンワールドの表紙になった。
これほど質の低い写真が表紙になった例はかつて
私が知る限りない。マイケル・ピーターソンの
未公開写真である。
この写真を使用した編集長は凄いと感じる。
MPを愛している証拠だ。
サーフボード、肉体、目付きから分かる精神、、、
人類の完成体であろう。
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心配事2012.05.04 Friday
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オーストラリアと日本を行き来する機会が増えている。
従って日本でサーフィンすることが多く、
GWは千葉、鎌倉などに連日通っている。
波は充分良いのだが、心配事は放射能だ。
シドニーでは海に入る前、及び海の中で
サメの話はある種のタブーだが
日本の海ではサメの代わりに放射能という
言葉が禁句なのだろうか?
311以降、SPEEDIと以下のサイトを見ているが
ここ最近、放射能の量が増え
範囲も拡大している。
だがメディアは私が知る限り
伝えていない。ちなみに朝日新聞
読売新聞、ラジオのAM局が私のニュース源だ。
みなさんも以下のWEBページを見て欲しい。
http://new.atmc.jp/
で?何が出来るか?
次の選挙で原発推進派を一層しましょう。
原発に依存している地域が多いのも確かで
原発で働く人、原発で潤っている町も多いのは
百も承知です。使用済み核燃料の行き場もなし、
福島の原発からは1年以上がすぎても
放射能漏れまくり、
節電して「我慢」したほうがマシだよ。
311で日本の国土の3%がダメになり
日本の食材が脅かされ、、、
それでも原発が必要だと思う人がいれば
それは自分の利益を優先する
金本位制だ。
つまりサーファーの見地から見れば
劣等民族、非常にカーストの低い人種である。
海洋汚染に通じることは全て悪である。
STOP原発を推進する。
東京にて。
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感謝します2012.05.03 Thursday
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シドニー、というかオーストラリアにいると甘えが多い。
ポイントまで最短で徒歩30秒、ジョーイ、モナヴェール、アヴァロン、、、
せいぜい車で5分と掛からない。しかし沖で出会う顔は同じだ。
乗るな波に集中できる。
一方、東京にいると鎌倉までは車で50分 千葉、茨城は朝の2時半出発。
その分いろんなことを考え 一人でないので旧友や諸先輩とお話ができる。
つまりボーーーとせずにいる。 毎晩、サーフィンに関する夢を見る。
海に入る前にフィンがなかっったり、ボードが折れていたり 「これはいかん」ものが
多いが、、ついでに車を止める場所がないとか、
しかし無理してでも海に入る。折れたボードやフィンなしとか でもって、
海でオーーボードが折れていない、、フィンもある 夢を回帰することがある。
オーーーマイガっあーーーフラッシュバックなり
2日間、北千葉、2日間鎌倉 どこも良い波で・・・・
運転をしながらいろんなことを考える。 文化放送の大竹誠もあきたので
ウォークマンをシガレットライターに つなげると結構良い音で音楽が楽しめる。
懐かしいニールヤング、サンタナ、、、、
まあともかく音楽が その時代の考え方を思い起こさせる。
うーーーーーん、いったいなんのためにサーーフィンしているか???
宗教、意地、ファッション、、、、、百人百様だが、 鎌倉から由比ヶ浜が見てたとき、
また新しい考えが浮かんだ。
暗いうちから起きて、暗いうちからパンとバナナとミルク、
そのために早く寝て、そのために仕事を切り詰めて、約束を止めて、、、
オイラの人生の目的はサーフィンだ、 だから朝からストレッチしたり走ったり、、、、
人生の目的はサーフィンだ。
朝起きるのはサーフィンするめ、 飯食うのはサーフィンするため 仕事するのはサーフィンするため 夜寝るのはサーフィンするため
妻を愛するのはサーフィンするため? だと家族の存在は?
家族は私のサーフィンを精神的に支ええているのだ。
そうに違いない。 とりあえずは2時半、まだ暗いが坂井と苅部が 迎えにきてくれる。
イェーーー ヘイサかな? 休みの日は教会で祈る、
沖で自然とコネクトして神様の教えを聞きましょう。
感謝あるのみ、 今自分があるのは 全てまわりのご加護、
明日も波に乗り開眼させてください。
すべてのサーファーが 最高の波に乗れるように祈ります!
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サーファーズ・ジャーナル2012.05.01 Tuesday
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昔から唯一、定期購読してしている雑誌である。
雑誌というよりは、むしろ読み物である、私にとっては。
かつてはUSA版、その後フィル・ジャレット(元TRACKS)が
編集長を務めるAUS版、そしてAUS版が残念ながら廃刊になり
再びUSA版、、、そして念願の日本版が2年前にスタートした。
最近号にデレク・ハインドとタイラーもイタリアサーフィン事情が
掲載されていた。
デレク「イタリアのサーフィンは古き良きUSAやAUSのようだ」
「サーフィンカルチャーがある。でもサーファーはマリファナを吸って
沖へ出る」、、、、
デレクさんはアンチドラッグ派の筆頭だ。
どれほど多くのサーファーがドラッグで消えたか、目の当たりにしてる。
そんなデレクさんに意見するサーファーも少なくない。
マシュー・ピッツはかつて人生で最も激しい言い争いを
ゴールドコーストで間近にみたそうだ。
デレクVSラビットだった。
怒鳴り合いである。2人のインテリが?と思うが
70年代後期のことだそうだ。
日本では脱法ハーブが蔓延しているようだが
サーフィンが好きなら、やめた方が良い。
理由は波乗りが下手になるからだ。
原価キロUS3000ドルの化学薬品を
葉っぱに混ぜて、高額で販売して
超高利益を得ているそうだ。
話も飛んだが、サーファーズジャーナルの
最新号は例によって読み応えがある。
サーフィンアンサイクロペディアで不明なサーファーを
調べて歴史的背景をイメージして、、、、
そうだ、おいらの肩書きは自称サーフィン歴史家だった。
そういえば最近ニューポートのリトルドラゴン、
知る人ぞ知る歴史上のグッズのみを販売するサーフィン屋が
廃業に追い込まれた。店長のミック・モックは
誰もが認めるオーストラリアのサーフィン歴史家でダチだ。
「メイドインチャイナの侵略でサーフィン業界はクソだ。」
と嘆く、「特にビラボンはひどいぜ」
これ以上、業界の悪口はやめよう。
あす以降、KEYOのニューボードが東京に届いたのでWEBにUPします。
ニューボードでも8万程度です。
営業でした・・・
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俺の友2012.04.30 Monday
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1981,暑い中、バリ島からヌサレンボンガンへは
今ではお土産で売っているような帆掛ボードで
渡った。何度も通うようになりそこで
傲慢さが原因で食中毒になった。
下痢、げろ、体内なkら出るものはないのに
水のような下痢が止まらず、しかたなく
レンボンガンからサヌールに戻ると
大きなホテルの医務室へ直行した。
島に滞在していたオージーがそこへたどり着ければ
ドイツ人のドクターがいて適切な処理を施す、
デンパサールへ行けば、、、、ひどい目に合う可能性を覚悟せよ
と脅されていたんのでサヌールのホテルの一室に着き
安心した。その前の月に2ヶ月間もスマトラの二アスにいたので
マラリアだと半ば諦めていた矢先である。
ドイツ人の医者はフードポイズンで?
先ずはデンパサールで血液検査をするようにすすめ
同日注射器で貴重な赤い地を抜かれた。結果が出るまで
数時間、私は後悔した。一流企業をやめて
サーフィン旅行に出なければ、、こんな目に合わず
可愛い妻と子供に囲まれ、大手広告代理店で
働いていたのに・・・・
デンパサールの病院は言い方だったが
日本に比べれば、、野戦病院のようだった。
待つこと数時間、やっと名前が呼ばれた。
「タダシ、、マラリア」
やっちゃまいましたか・・・マラリアか。。。
覚えたてのインドネシア語で一応
「サヤ・エィダ、、マラリア?」と尋ねると
看護婦のおばさんは「ティダ」を連発!
つまり私はマラリアではなかった。
では?食中毒だったそでうす。
それまでの具合の悪さが一転してアリナーバンガローにもどるなり
ビールを飲み、ポピーズレーンに向かい飛んだ!
僕には友人が数人いる。中でも30年以上、兄弟のように
一緒にサーフィンsるマブダチがいる。同じ年で同じ大学だが
ほんのすこし私の方が先に波乗りを始めていた。
Sとは湘南から伊豆や千葉、大島、新島、、、、、
一緒に歩んだ。
東京にいるとき、Sは朝の2時半に迎えにきてくれる。
そして千葉や茨木に行く。シドニーへ移住する以前
俺たちは福島へ毎週通っていた。
1995年6月28日、そこで出会った犬たちが
私のその後の運命を決めるのだが・・・・
そして昨日も今日も2時半にきて北千葉で
3人でサーフィンした。3人は35年近くサーフィンをする
仲間で、、、気分はビッグウェンズデイなのだ。
僕はオーストラリアに13年、それ以降は日本とシドニーを行き来するが
Sは家族持ちでサラリーマンで、、、でも毎週必ず春夏秋冬、横浜から
福島へ通っていた。もう一人は現在60歳に師匠である。
師匠とは名ばかりでデタラメ、昭和のサーファーである。
福島のポイントが消滅した現在、我々は北千葉、茨木へ行くが
Sは決して時間に遅れず、2時半に来る。
そして最後まで海に入っている。
俺たちはサーフィンで結びついた、それだけの関係だ。
だから純粋でいられる。俺たちのビッグウェンズデイは
いつ来るのか?今朝も来た。3人でサーフィンにいくと
いつだってドラマがある。
俺たちは依然としてサーフィンを続けている。
それが全てだ。
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世界各地の移民排斥運動、2012.04.27 Friday
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ここ数箇月、シドニーとバイロンベイトとミッドノースコーストと
東京と鎌倉を行き来している。どこにいても楽しい。波のりと都会は
相反するのもだが、それが刺激し合い、今までと違った化学変化が起き始めている。
初体験の連続で危険な刺激でもある。
JALに乗る回数が多く、マイレージが貯まりここ2回はフューエルサーチャージ代金だけだが、それでも往復で5万円くらいかかる。まだ何度かはこのパターンで行き来できるが
成田ーシドニーではなく、アジア経由でシドニーと東京の間を行き来したい。
そこでグーグルアースを見ていたら・・・・うーーーーん
カンボジア、ビルマは未だ行ったことがないし、すげーーー地形の場所もある。
波はある。ただしアクセスと正しい時期にたどり着けるか?
昔は、と言ってもつい80年代前半であるが、銀座のイエナ書店で地図を購入して
スマトラやジャマイカやアゾレスなどを研究したものだ。
いまはグーグルアースとPCで検索すれば、波の有無から安宿、ドラッグ、
売春、高級リゾート、流行りのディスコまで画面上に出てくる。
でもまともに信じるとバカを見るケースも多く、
長いこと旅をしていると最後は直感、それを裏付けるコミュニケーション、経験と知識が
頼りになる。深夜、渋谷から辻堂に買えるくらいならスマートフォンは役に立つが
グヌンシトリからバンダンアチェまで行く方法は、その場にいなければわかるはずもない。
そこにいたって、交渉次第で変わるんだからね。
石原都知事が尖閣を東京都で購入するそうですが、それならば
すくないながらも我が社も売上の一部を寄付しても良いのでは、と
考える。先日小田急線に乗り驚いた。各駅に日本語、英語と並列に
シナ語と挑戦文字が記載されている。なんじゃこりゃ?
江ノ電もしかり、、成田エクスプレスならしょうがないと諦めるが
これには驚いた。日本はシナや朝鮮移民に乗っ取られるのでは?
海外から戻りつくづくそのように感じた。
欧州をはじめ、オーストラリアでさえ、身分不相応な移民は排斥され始めている。
身分不相応とは2国間の利益をためではなく、自分の経済的理由で
移住してきた外国人である。
オーストラリアが好きで、日本とオーストラリアの友好を深めたい、
2国間の貿易を促進したい、それならば友好関係は生じる。
しかし、日本人同士で固まりオーストラリ人と接することなく
日本人同士で設け合い騙し合い、、、、、それならば移民は必要なしが
我が持論である。例えばシドニー市内やサーファーズパラダイスでは
来たての英語が十分でない日本人留学生から、割高で携帯電話を
契約させる日本人経営の会社が目立つ。あれは詐欺さだね。
ドイツではトルコ人は排斥、南シドニーではイスラムは排斥、
ロンドンではシナ人、ロスでは朝鮮人は排斥、、、、もう世界中で
純粋なナショナリズムが生まれて育ち、活動を始めている。
シドニーに13年くらしFuckin'JAP呼ばわりされたのは2回だけがあるが、
取っ組み合いになり、結局仲裁が入り
手打ちした。相手も理解したし俺も言うことは言った。こういった英語は
正直めっぽう上手い。外人と戦うことにいつから引け目を持たなくなったのか?
1970年代後期18歳でカルフォルニアへ行き、ニューヨークででかい黒人のネーさんに道を
尋ねられて、、答えられるずにいたら「オーーユーアーダム)あんた耳が
聞こえないんだ、と言われてショックを受けて以来、ならば嘘でも教えてやろうと
決心した。オーストラリア人と知り合い嘘はまずい、誠意を尽くそうとするようになり
変化したが、未だにアメリカ人の一部とフレンチは苦手だ。フレンチの女は香水くさいが
奥に魚の匂いがするのは私だけか?
インドの女は完璧だ。苦くてクセになる。でもモロッコの女子はバラの香りが
して今でもハッキリ覚えている。話も飛んだ、失礼!
長いこと海外に暮らすと保守になる。
お許しください。
でもサーファーに国境はないから、自然体でいられるんですね。
おいらが、どれだけオーストラリアでお世話になっているか、
基本はオーストラリアでは日本人グループとは付き合わない、だ。
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